2012年8月15日
亡き父が残した原稿『私の昭和史』
私の昭和史
第一回芥川賞、『蒼氓』(そうぼう)の作品中のモデルと言われる元らぷらた丸事務員の佐藤課長が、
「万納君、明後日乗船命令が出るだろう」と言いました。
私が乗船待機の為、神戸に来て一週間が経っていました。
いよいよこの世とおさらばかと、焼け跡の神戸の町に名残りを惜しみつつ山手の船員寮に帰ると、
私のあとに入社したA君、S君の顔が見えました。
A君は徴兵検査が近い為、S君は親が疎開する為との事。
明後日と言われた私の乗るべき船にA君が、続いてなぜか私の先にS君までも敦賀へ出発して行きました。
そしてこの私は、梅雨明けの暑い日、船員寮の先輩達にもっとも安全な船と羨ましがられた、
大阪湾上の錦丸へ三等主計士として乗船しました。
安全な船といわれても戦時中、艦載機の機銃掃射あり、目の前の櫻岳造船所へのB29の夜間来襲、
スコールのように落下する一屯爆弾、甲板に俯伏せながら、
「終りだな、もう終りだな」と何度思ったことか。
不思議に恐怖感はありませんでした。
『あきらめ』は、怖さ知らずと知りました。
終戦後、陸上勤務に移り、A君の船も、S君の船も、日本海にて、敵潜水艦に撃沈され、
未公表ではありましたが、両君の死亡を知りました。
そして、A君の母親の来社、未公表の為、ぎこちなく応対する係長、
不安気に問い質す母親、慰めの言葉をかけることの出来ない私の立場、辛い思いでした。
運命と言うものを、初めて感じました。
その年の暮れから、横浜で、米軍貸与引揚船の乗組員の為の宿泊船の事務をとり、
翌年の春、最後のアメリカ病院船引取りのため、アメリカ船員と同宿した日の昼、
タラップの下に、たくさんの女の人が群れています。
サンドイッチ片手に、きれいな若い女を指名するアメリカ船員、
目の前を、私と同年輩の女の人が、船室へ消えていきます。
清楚な感じの、しっかりしたもんぺ姿の女の人でした。
幼い弟妹の糧の為、身を売るのだと推測しました。
何もしてあげられない私達、
彼女の心の奥は知ることは出来ませんが、
淫らな心は、私には起こらず、
深い清らかさを感じました。
美しい大きな富士を背に、
白衣の天使百人と過ごした往きの航路は、明るくたのしいものでした。
しかし上海から乗船して来た、元気な病人、悪い病人、
そして、故国を目の前にして、霧笛の中を水葬にされた人。
人生の縮図を感じました。
不運な人の犠牲において、好運な人が生まれることを知りました。
昭和一ケタは、育ち盛りを、不十分な食べもの、中途半端な学問、損な世代と言われます。
私の仲間の多くはそうだと思います。
だが、私は違います。
終戦前後の一年間、強い体験の積み重ねが、その後の生活の指標になりました。
17歳の始めと終りで、私の昭和は終わりました。
私の初詣は、横浜のメリケン桟橋に行くことです。
百円玉を投げ込み、重い海を見ながら、友の冥福を祈ります。
あれから37年、私の人生も最終航路です。
ギャンブル好きな私には、第4コースを回り、直線走路に向いている私の身体を知っています。
これからも、素直な気持ちで、色気を失わず、元気に、ゆっくり、ゆっくり、
直線走路を歩いていきます。
父は今から25年前の昭和62年、58歳で亡くなった。
この原稿は、亡くなる5年前に書かれたものらしい。