

青山のヨックモックでコーヒーを飲んでおりますと、
この前の通りを鉄砲を担いだ兵隊さんが雨の日も雪の日も、暑い夏も寒いも冬も、
何百人いや何千人も軍歌を歌ってザッザッと歩調をあわせて歩いていた道なのかと疑いたくなります。
あれからもう50年近くたち、私も還暦を迎えました。
私にはこの道で一杯の水を兵隊さんにあげたことから始まったドラマがあります。
おしゃれで情熱かの私の母(江守喜久子)は昭和12年ごろから演習の帰途疲れきって我が家の前で休んでいる兵隊さんにお茶を出し始め、テーブル椅子を置き、今の言葉で言うボランティアを始めました。
静かな山の手の屋敷町の方々は驚かれた事でしょう。
幸い隣組みの方達はすばらしい人々でクラシック音楽をかけてくださるお宅をはじめ、いろいろな方がお手伝いをしてくださいました。
(今の若い方にこの一杯のお茶の値打ちを説明する事はむずかしいことでしょう)
夏は冷たく、冬は暖かい紅茶等を出し、物資が無くなると区役所から配給を受けました。
もちろん自費です。
支那事変から大東亜戦争となり、学徒出陣の方も入って来て、近歩3、近歩5部隊の兵隊さんも
中国に、満州に、南方にと出陣して行きました。
我が家は家族との別れの場所にもなり、特攻隊として散って行かれた方もございました。
出会いがあり、別れがあり、そして死があり、毎日がドラマでした。
願うことはただ一つ死なないで帰って来て、と祈るのみでした。
戦争に勝つ負ける以前の問題でした。
遠いインドから、十七、八歳の青年が陸軍士官学校に留学しており、
彼らも遊びに来ていました。
我が家は何時の間にか大勢の兵隊さんの憩いの場になりました。
ある時は日射病で倒れた兵隊さんの救護所にもなりました。
母にとって、東大出の方も小学校出の方も、将校も、兵卒も皆分けへだてない兵隊さんでした。
終戦になり、社会人として社長、代議士になられても、
母にとっては一杯のお茶が御縁の兵隊さんでした。
母が亡くなった今でも彼らに青春時代のマドンナのように語られておりますのを聞きますと、
母は勇気のある幸せな人だったなと明治の女性の強さを思い、
そしてそれをさせた父に明治の男の大きさを感じます。
青山は私の一生でかけがえのない折々の人々の出会い別れの思い出の地です。
夜空の美しい昔は人の心も美しい時代、
今の青山は人の心も町の様子も変り、車車お金お金の青山に、
21世紀まで生きのびてもう一度たしかめたいと思います。
でも青山を愛しています。
こちらの文章は、兵隊おばさんこと江守喜久子さんの二女松島和子さんが
20数年前に書かれたものです。
多くの人に当時のことを知っていただきたくて、
松島さんにお願いをしてこちらに掲載させていただきました。
写真・文章の転載はご遠慮いただきますよう、どうぞよろしくお願いいたします。