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2020年8月 4日
山陽堂書店メールマガジン【2020年8月3日配信】立川生志師匠
山陽堂書店ではメールマガジン配信しています。
配信をご希望される方は件名に「配信希望」と明記のうえ、
sanyodo1891@gmail.com(担当 マンノウ)までご連絡ください。

山陽堂書店メールマガジン【2020年8月3日配信】

みなさま


こんにちは。
今週は3日・5日・7日に渡り、今春の山陽堂落語会(開催延期)にご出演予定でした噺家のみなさんにご登場いただき、
噺家になられたきっかけと、おすすめ本を紹介していただきます。
本日は立川生志師匠です。

〈立川生志師匠プロフィール〉
DSC_0284.jpg
(写真 橘蓮二)
1963年福岡県生まれ。
1988年立川談志に入門、立川笑志となる。
談志も認める陽気な高座は前座時代から「賞ハンター」の異名を持ち、
若手落語家の登竜門と言われる「NHK新人演芸大賞」「にっかん飛切落語会」の各賞を何度も受賞。
1997年二ツ目昇進。
2008年4月、入門20年目にして落語立川流真打に昇進。立川生志と名を改めた。

生志師匠には山陽堂書店の念願だった落語会に昨年ご出演いただきました。
今年6月より「立川生志チャンネル」も開設されましたのでこちらも是非ご覧ください。
立川生志チャンネル:https://www.youtube.com/watch?v=kI_UxOJ_vv0
公演情報:8月7日(金)横浜にぎわい座(http://nigiwaiza.yafjp.org/perform/archives/20479

〈噺家になられた経緯〉
落語家になるのは子どものころからの夢だった。
幼少期の記憶はほとんどないが、親戚の叔母さんたちからは「とてもおしゃべり好きな子どもだった」と言われた。
小学校に上がると人の前に出るのが恥ずかしくて、あまり目立つことはなかったが、
班などの小さなコミュニティで話すのは得意で、
「何か話してくれ」とわたしの周りに集まってきた友人たちに、
即興で口からデマカセの物語を作っては聞かせ、笑わせることに快感を覚えていた。
家では、ふたりの弟と川の字に敷いた布団にくるまりながら延々とくだらない話をしては笑い合い、
呆れた母親から「早く寝ろ!」といつも叱られていた。
それでも、ヒソヒソ声で話しては大声で笑うことを繰り返し、
最終的に母親の逆鱗に触れるという、まるでコントのような、馬鹿馬鹿しくも楽しい毎日を過ごした。

そうやってゲラゲラ笑って育ったわたしが小学5年生になったときのことだ。
クラスの父兄参観の発表会で、同級生の山内くんが『落語』を披露した。
ひとりで扇子を片手に正座して演じた『寿限無』は皆を爆笑させ、彼はその日の英雄になった。
それがわたしの体験した初めての生の落語である。
笑うことが大好きだったわたしは、
テレビの『大正テレビ寄席』、『お好み演芸会』、『お笑いネットワーク』などで落語の存在は知っていたが、
着物のお爺さんが地味に喋っている印象しかなくて興味が持てず、
そのかわり、『てんやわんや』、『Wけんじ』、『敏江・玲児』、『レツゴー三匹』、『球児・好児』、『セント・ルイス』などの漫才に憧れていた。
余談だが、わたしが前座のときに楽屋で、『Wけんじ』の宮城けんじ先生から「キミは若いのに上手いねえ」と褒めていただいたことや、
地方公演での移動のジャンボタクシーに『セント・ルイス』先生のお二方とご一緒させていただいたこと、
漫才ではないが、牧伸二先生、ケーシー高峰先生など子供のころのテレビのヒーローの方々とご一緒させていただけたことは、
わたしが落語家になってよかったと思えることのひとつである。

閑話休題、わたしは山内くんのおかげで『落語』に目覚めた。
志ん生師匠や文楽師匠ではなく、同級生の山内くん。
漫才は好きだけど相方がいないとできない...でも、『落語』ならひとりでやれるし、
今までお爺さんのものだと思い込んでいたが、これは意外と面白いかも!
小さなコミュニティで人を笑わせる快感を知ってしまった少年のわたしは、すぐに落語に飛びついた。
祖父が持っていたレコード(確か先代の小さん師匠)を聴いたり、図書館で借りた子ども向けの落語集を夢中で読んだりして、
6年生の父兄参観のときに、本で覚えた『子ほめ』を演った。こんなに面白いものがあるのだと皆に伝えずにはいられなかったのだ。受けた!!
恥ずかしがり屋だったはずなのに、これがクセになってしまった。

中学生になると、発表の場もないのにラジオで落語を覚え、角川文庫の古典落語集を買い揃え、
ニッポン放送の萩本欽一さんの番組『欽ドン』にハガキを投稿し、何度も採用されて賞金を手にした。
授業中は先生の話も聞かず、『母と子の会話』や『先生と生徒の会話』のネタを考えていたものだ。
笑わせること、笑ってもらえることが楽しくて、「こんなことを仕事にできたらいいな」と真剣に考えるようになり、
卒業文集の『将来なりたい職業』に「放送作家か落語家」と書いた。

高校に進学すると、福岡で落語公演があると足しげく通うようになった。
九州には定席がないので、落語を観るために寄席にふらっと出かけるというわけにはいかなかったのだ。
とりわけ桂枝雀師匠が大好きで、どれもが爆笑もので感動した。
『宿屋仇』、『鉄砲勇助』など知らない落語もたくさんあったし、
『代書屋』と『鷺とり』はレコードで夢中になって覚えた。
落語が、演者や演出によって全く違うものになるということに気づかせてくれたのも枝雀師匠だった。
公演会場で出待ちをして握手をしてもらったことは忘れられない。
友人から甲斐バンドだかチューリップだかのコンサートに誘われたが、
「その日は枝雀独演会があるから!」ときっぱり断ったところ、「誰それ?」とぽかんとされたこともあった。

高校3年生のときに『談志・円楽・小三治の会』にも行った。
トリの談志が「この三人揃っては、東京じゃ見られねぇぞ」と言っていたが、たしかに、本当に豪華な顔ぶれだった。
でも、のちに自分が談志の弟子になるなんて、このときには思いもよらず、
それどころか「談志だけは師匠には選ばない!」とさえ思っていたのだから、人生は面白い。

高校を卒業したらすぐに落語家になりたいという思いも多少はあったが、
九州の片田舎で育った高校生にとって、単身で都会へ出るのはとても勇気がいることだった。
「関東か関西の大学に進学すれば都会に行ける」とも考えたが、経済的事情でそれも叶わず、
かといって奨学金で進学できるほど賢くもなく、しかたなく地元の福岡大学に進学することにした。
胡散臭い落語研究会があることは知っていたので、そこで時間稼ぎの4年間を過ごそうと無い知恵を絞ったのだ。
それは楽しい学生生活だった。落語家ごっこをやりながらアルバイトと恋愛におぼれる毎日に満足してしまい、
プロの落語家になるという固い決意が鈍った。
あっという間に3年の歳月が流れ、現実逃避の時間も終わりが近づいてきた。
つき合っていた彼女から「一部上場の会社に就職して!」と言われると、
「プロの落語家になるなんて甘いよな」と自分に言い訳して、普通に就職活動を始めることにした。
一部上場企業に片っ端から挑戦したが、一次面接と二次面接を突破しても成績表を出すと必ず玉砕。
何せ学科でビリから2番目の成績で、わたしの下の奴らは留年なのだ。
それでもなんとか誰もが知る企業に採用してもらえた。
福岡大学から初めて採用された学生になってしまったようで、
就職課の職員は驚いて目を丸くしていたし、落研の失礼な後輩からは「縁故入社ですか?」と言われる始末。
でも、親や恋人は喜んでくれた。
いい会社に就職し、結婚して家庭を築き、定年まで勤めるという、一般的な幸せの第一歩を踏み出したのだから。
賃金、福利厚生、人間関係、サラリーマンにとって文句のない環境だった。
ただ、何か違うというか、もの足りないというか、モヤモヤした気持ちで会社員生活を送っていた。

会社員になって1年が過ぎたころ、学生時代からつき合っていた恋人にふられた。
失恋は悲しかったが、しばらく封印していた、落語家になる夢を実現させられるかもしれないという喜びの方が大きかった。
もう自分の好きなように生きられるのだ。好きなことを仕事にしよう。
挑戦しないで後悔するより、挑戦して仮に失敗したとしてもきっと後悔はしないだろう。
そうだ!落語家になろう!そう決心し、丸2年お世話になった会社を円満退社した。
退路を断つことで反対する両親を説得し、談志に入門した。

改めて、「なぜ落語家になったのか」と問われれば、「夢を諦められなかったから」という答えになる。
少し遠回りはしたが、今まで経験したことは何ひとつ無駄ではなかった。
なぜなら、落語は人間の機微を描くもので、演者の心の引き出しは多い方がいいと考えるから。
ひとつの夢は叶ったが、叶ったが故にまた新しい夢ができ、そのつながりで31年の落語家人生を歩んできた気がする。
長男のわがままを許してくれた両親と弟たちにも感謝している。

そしてまだまだ夢は続くのだ。まず今の一番の夢は、山陽堂書店さんでの二度目の独演会だ。

立川生志

〈おすすめ本〉
わたしは読書家ではありませんが、小学3年生のときに初めて自分の意思で買った本が
『小学館入門百科シリーズ 野球入門 攻撃編』(監修/長嶋茂雄・王貞治)でした。
本のとおり、コンクリートの壁にストライクゾーンを書いて素振りしたのを覚えています。
我ながら馬鹿な子供です。
でも、馬鹿ゆえの真面目なところもあって、
小学校で強制的に書かされる読書感想文コンクールのために図書館で本を借りることがありました。
何を借りて読んだかは馬鹿なので忘れてしまいましたが、何度か賞をもらうことができました。
賞をもらえば親は喜ぶし、友達にも羨望されるので、図書館に行くのはまんざらでもなかったです。
おかげでそこに『落語』の本があることも知りました。

そんなわたしが夢中になって読んだ作家が星新一さんです。
中学1年のときに友達に貸してもらったのがきっかけでした。
『野球入門』以来、自分の小遣いで買った本は『ほら男爵 現代の冒険』。
少年チャンピオンも毎週買っていたので、少ないお小遣いを工面して星新一さんの文庫本を一冊ずつ増やしていきました。
落語にハマり始めた当時のわたしには、星新一さんのショートショートがぴたりとリンクしたのでしょう。

今回、30数年ぶりに読み返してみようと『ボッコちゃん』を購入しました。
昭和46年5月の初版から数えて、令和元年11月でなんと116刷!いまだに多くの人たちに読まれ続けている証です。
わたしが初めて買ったのが昭和50年ころだから、実家にある『ボッコちゃん』は何刷なのかな?
本って、こんな楽しみ方もできるんですね。
さて、読み返してみて感じたことは今更ながら星新一という作家さんの凄さでした。
初期の作品集なので、昭和30年代後半から40年代初めころに書かれたものでしょうが、
文章を読むことが苦手なわたしでもどんどん読み進むことができる一見平易な文章は、
実は無駄のない文学的描写と上品な会話文で構成されていて、
既に星新一の文体が確立されていたことに改めて驚かずにはいられませんでした。
子供のころには気がつかなかった、その文章の巧みさと気品、テーマの深さ、
その作品は今も色褪せることなく新鮮で、
中には現代社会の様々な問題を予見しているものがいくつもあります。
中学生のわたしはアイデアばかりに関心があって、また感動してしまいましたが、
その洞察力や想像力そして知性は、
わたしが100回生まれ変わっても到底身につけられるものではないとわかりました。
わたしは馬鹿だから頭のいい人に憧れます。
気づいてはいなかったけれど、何か勘のようなもので、
作品だけでなく星新一さんに昔から憧れていたのかもしれません。
自薦50編からなるこのショートショート集、再読ではありますが、
オチを考えながら読み進めました。それも楽しかったー!中でも『親善キッス』はずっと忘れられない作品で、
今でもネタを考えるときの参考にさせてもらっています。筒井康隆さんの解説もお得な気がします。
未読の方は是非読んでみてください。もちろん再読もよし!
お買い求めはもちろん山陽堂書店さんで。なぁんて、『冬きたりなば』のエヌ博士ではありませんが...。

立川生志
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