とても寒い雪の降る朝だった。
目覚めると傍らに母がいた。
おじいちゃんが亡くなった、そう私に伝えると母のほほに一筋涙がつーっと流れた。
私は8歳だった。
祖父にとって初めてのうち孫だった私は、
大変可愛がられたという。
けれども、私にはふとんに寝たり起きたりの祖父の思い出しか残っていない。
半世紀前の昭和37年頃、東京オリンピック道路拡幅工事のため、
狭くなっても現在の場所で本屋を続けるか代替地に移るか、
選択を迫られていた最中、祖父は病に倒れてしまったからだ。
祖父が元気で生きていたら、
明治・大正・昭和の山陽堂や青山界隈の話をもっと聞けたのにと思う。
昭和6年に建てた店が、戦争を乗り越えてきた建物が、
3分の一に削られてしまうことは、
身を切られるような思いではなかっただろうか。
私は寝ている祖父の頭をポンと叩いては、
さっと逃げていくような、しょうもない孫だったが、
(ときどき素早い祖父の手がさっとのびて私を捕まえるので油断できなかった)
山陽堂との付き合いが長くなるにつれ、
無性に祖父に話が聞きたかったと思うのである。