2012年9月19日
城山三郎著『落日燃ゆ』の広田弘毅さんのこと。
高校時代の倫理社会の授業で先生はこう言った。
「日本にもソクラテスのような人がいました。」
それは、東京裁判でただひとりA級戦犯で処刑された文官、広田弘毅氏のことだった。
当事、城山三郎さんの著書「落日燃ゆ」がベストセラーになっていたのではなかったか。
授業のあとも先生の言葉がずっと残っていた。本を読みたいと思った。
現代史のことなどよく知らなかったが、
なぜ、戦争にならないようにと努めたにも関わらず、このような結果になってしまうのか、
思いと反対の方向に進んでしまう時代の流れの怖ろしさを、感じた。
それからというもの私の中で「広田弘毅」という人物は忘れられない人となった。
30年位経ったあと、
広田氏の話は、数ヶ月前に亡くなった経師屋のおばあちゃんから聞くことができた。
「広田さんのお宅にね、うちの人が襖をかえに行くでしょ。その襖をもって、あ、軽くなったと思うと、
広田さんがひょいっと持っていてくれたりするんですって。」
「ラジオで広田さんの刑を聞いたときは泣きましたよ。」
「原宿二丁目町会の氏神様の熊野神社って書いてあるあの掛軸は、広田さんが書いたんですよ。」
近所のお魚屋さんは
広田さんにおめでたいことがあると、お祝いに大きな鯛を持っていったという。
山陽堂3代目の姉(現89歳)も、
「広田弘毅さんはお客様だったよ。あの弘毅の毅という字がちょっとむずかしかったろ。
伝票書いたのを覚えてるよ。」と言っていた。伯母は当事10代後半だろうか。
広田氏のお屋敷のあった場所がわかったのは、
経師屋さんのおばあちゃんに教えてもらった7.8年前。
なんと私は、広田氏の屋敷跡で毎日のように
幼稚園から小学校低学年の頃まで遊んでいたのだ。
当事は、とても広いゴルフの練習場だった。
そして、昨年「青山表参道昭和10年ごろの町並図」を販売している都市製図社さんから
広田弘毅氏のお屋敷が掲載されている昭和18年ごろの地図を頂いた。
山陽堂の企画展「あの頃の青山表参道」でこの地図を展示した。
ひとりの女性が
「うちが見つかりました。」
と言ってレジに来られたので、
「広田弘毅さんのお宅があったの気づかれましたか?」
とたずねた。
「・・・・・。」
なんと、その方は広田弘毅さんのご親族の方。
驚いた、高校時代から長い間思い続けていた方のご親族にお目にかかれたこと。
きょうもきょう、その広田弘毅さんの息子さんと親しくされていた方の弟さんが見えた。
その方のお兄さんはよく広田邸を訪ねたとのこと。
その方のお宅もその地図にあった。
なんと、私の家の目と鼻の先であった。
こんな話をしていたら、私たちの会話を小耳に挟んだのか、
「私の曽祖父は、広田弘毅の秘書官をしていました。」
という女性がレジで母に話してくれたそうだ。
なんという偶然、いや必然か・・・。
店にいると、いろんなことがある。
いろんなことがつながる。
ふしぎ。