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2012年8月29日
都電の線路の御影石
昭和10年の青山表参道の町並図には、一軒一軒当事住んでいらした方の名前が入っている。
二階のギャラリーで嫁ぎ先の名前を見つけた女性がいた。

以前、青山周辺の都電が廃止になったとき、線路の舗装に使用されていた御影石をもらったというお客様がいた。
この方のお義父様もこの御影石をもらって玄関前に石畳をつくったそうだ。
都電廃止のときは、かなりの御影石が排出されたことだろう。
それを無償で提供してくれるなんて、
なんと穏やかで緩やかでのんびりした時代だろう。

大正昭和と路面電車を支えてきた御影石が、家の玄関先にあるなんてなんだか素敵だなと思った。

2012年8月21日
「『兵隊おばさん』わが母の記」 
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青山のヨックモックでコーヒーを飲んでおりますと、
この前の通りを鉄砲を担いだ兵隊さんが雨の日も雪の日も、暑い夏も寒いも冬も、
何百人いや何千人も軍歌を歌ってザッザッと歩調をあわせて歩いていた道なのかと疑いたくなります。
あれからもう50年近くたち、私も還暦を迎えました。

私にはこの道で一杯の水を兵隊さんにあげたことから始まったドラマがあります。
おしゃれで情熱かの私の母(江守喜久子)は昭和12年ごろから演習の帰途疲れきって我が家の前で休んでいる兵隊さんにお茶を出し始め、テーブル椅子を置き、今の言葉で言うボランティアを始めました。
静かな山の手の屋敷町の方々は驚かれた事でしょう。
幸い隣組みの方達はすばらしい人々でクラシック音楽をかけてくださるお宅をはじめ、いろいろな方がお手伝いをしてくださいました。
(今の若い方にこの一杯のお茶の値打ちを説明する事はむずかしいことでしょう)
夏は冷たく、冬は暖かい紅茶等を出し、物資が無くなると区役所から配給を受けました。
もちろん自費です。

支那事変から大東亜戦争となり、学徒出陣の方も入って来て、近歩3、近歩5部隊の兵隊さんも
中国に、満州に、南方にと出陣して行きました。
我が家は家族との別れの場所にもなり、特攻隊として散って行かれた方もございました。

出会いがあり、別れがあり、そして死があり、毎日がドラマでした。
願うことはただ一つ死なないで帰って来て、と祈るのみでした。
戦争に勝つ負ける以前の問題でした。
遠いインドから、十七、八歳の青年が陸軍士官学校に留学しており、
彼らも遊びに来ていました。
我が家は何時の間にか大勢の兵隊さんの憩いの場になりました。
ある時は日射病で倒れた兵隊さんの救護所にもなりました。
母にとって、東大出の方も小学校出の方も、将校も、兵卒も皆分けへだてない兵隊さんでした。
終戦になり、社会人として社長、代議士になられても、
母にとっては一杯のお茶が御縁の兵隊さんでした。
母が亡くなった今でも彼らに青春時代のマドンナのように語られておりますのを聞きますと、
母は勇気のある幸せな人だったなと明治の女性の強さを思い、
そしてそれをさせた父に明治の男の大きさを感じます。

青山は私の一生でかけがえのない折々の人々の出会い別れの思い出の地です。
夜空の美しい昔は人の心も美しい時代、
今の青山は人の心も町の様子も変り、車車お金お金の青山に、
21世紀まで生きのびてもう一度たしかめたいと思います。

でも青山を愛しています。

こちらの文章は、兵隊おばさんこと江守喜久子さんの二女松島和子さんが
20数年前に書かれたものです。
多くの人に当時のことを知っていただきたくて、
松島さんにお願いをしてこちらに掲載させていただきました。
写真・文章の転載はご遠慮いただきますよう、どうぞよろしくお願いいたします。






2012年8月15日
亡き父が残した原稿『私の昭和史』
私の昭和史

 第一回芥川賞、『蒼氓』(そうぼう)の作品中のモデルと言われる元らぷらた丸事務員の佐藤課長が、
「万納君、明後日乗船命令が出るだろう」と言いました。
私が乗船待機の為、神戸に来て一週間が経っていました。
いよいよこの世とおさらばかと、焼け跡の神戸の町に名残りを惜しみつつ山手の船員寮に帰ると、
私のあとに入社したA君、S君の顔が見えました。
A君は徴兵検査が近い為、S君は親が疎開する為との事。
明後日と言われた私の乗るべき船にA君が、続いてなぜか私の先にS君までも敦賀へ出発して行きました。
 そしてこの私は、梅雨明けの暑い日、船員寮の先輩達にもっとも安全な船と羨ましがられた、
大阪湾上の錦丸へ三等主計士として乗船しました。
安全な船といわれても戦時中、艦載機の機銃掃射あり、目の前の櫻岳造船所へのB29の夜間来襲、
スコールのように落下する一屯爆弾、甲板に俯伏せながら、
「終りだな、もう終りだな」と何度思ったことか。
不思議に恐怖感はありませんでした。
『あきらめ』は、怖さ知らずと知りました。

終戦後、陸上勤務に移り、A君の船も、S君の船も、日本海にて、敵潜水艦に撃沈され、
未公表ではありましたが、両君の死亡を知りました。
そして、A君の母親の来社、未公表の為、ぎこちなく応対する係長、
不安気に問い質す母親、慰めの言葉をかけることの出来ない私の立場、辛い思いでした。
運命と言うものを、初めて感じました。

その年の暮れから、横浜で、米軍貸与引揚船の乗組員の為の宿泊船の事務をとり、
翌年の春、最後のアメリカ病院船引取りのため、アメリカ船員と同宿した日の昼、
タラップの下に、たくさんの女の人が群れています。
サンドイッチ片手に、きれいな若い女を指名するアメリカ船員、
目の前を、私と同年輩の女の人が、船室へ消えていきます。
清楚な感じの、しっかりしたもんぺ姿の女の人でした。
幼い弟妹の糧の為、身を売るのだと推測しました。
何もしてあげられない私達、
彼女の心の奥は知ることは出来ませんが、
淫らな心は、私には起こらず、
深い清らかさを感じました。

美しい大きな富士を背に、
白衣の天使百人と過ごした往きの航路は、明るくたのしいものでした。
しかし上海から乗船して来た、元気な病人、悪い病人、
そして、故国を目の前にして、霧笛の中を水葬にされた人。
人生の縮図を感じました。
不運な人の犠牲において、好運な人が生まれることを知りました。

昭和一ケタは、育ち盛りを、不十分な食べもの、中途半端な学問、損な世代と言われます。
私の仲間の多くはそうだと思います。
だが、私は違います。
終戦前後の一年間、強い体験の積み重ねが、その後の生活の指標になりました。
17歳の始めと終りで、私の昭和は終わりました。

私の初詣は、横浜のメリケン桟橋に行くことです。
百円玉を投げ込み、重い海を見ながら、友の冥福を祈ります。

あれから37年、私の人生も最終航路です。
ギャンブル好きな私には、第4コースを回り、直線走路に向いている私の身体を知っています。
これからも、素直な気持ちで、色気を失わず、元気に、ゆっくり、ゆっくり、
直線走路を歩いていきます。




父は今から25年前の昭和62年、58歳で亡くなった。
この原稿は、亡くなる5年前に書かれたものらしい。




2012年8月 8日
山陽堂だよりを待ってくれてる人がいる。
思わずツイートしてしまった、今日とっても嬉しいことがあったと。
以下、ツイート2件。

今日、すっごくうれしかったことその1。 配達先の美容院さんから、山陽堂だよりのバックナンバーが5か月分どうしても見つからないからと連絡があったので、お届けに。そしたら、きちんとファイルのなかにきれいにしまってくれていているのを見て、嬉しくて鳥肌がたってしまった。ありがたや。


山陽堂だよりを待ってくれている人がいる。
「たのしみにしてるんですよ。」
この一言が
どんなに励みになることか・・・。

店頭に置いておくのと、配達先に配るのと、
毎月250枚くらいしか刷っていないが、
今のところ、毎月かかさず出している。
先月など7月号を7月24日に発行したのではなかったか・・・。
特に、発行日も決めていないので、
あまり遅いと
「山陽堂だより、まだですか?」
と配達先できかれることがでてくるようになった。
ありがたいことである。
この8月号で36号めとなった。

鉛筆で手書きしているのは、
ただ単に、これがいちばん楽だから。
書いたり消したり、書いたり消したり。
机の上が、消しゴムのかすでいっぱいになることもある。

『待ってくれる人』がいること、
そのことは「山陽堂だより」を書くことに
見えない風を送ってくれているんだなあ、
つくづく思う。

『待つ人』の存在のなんとありがたいことか。

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