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2011年8月26日
やっと、ホームページもリニューアル

山陽堂がギャラリーのある本屋になってから早3ヶ月。

ホームページをつくってくれているインディードのKさんは

前々から準備をしてくれていたのに、私が滞らせていました。

原稿をやっとのことでお渡ししたら、

まっていましたとばかり、

すぐにとりかかってくれました。

そして、できあがったのがこちらです。

 

お店紹介に登場している、

https://sanyodo-shoten.co.jp/shop/index.html

現店主ゆきちゃんのこの表情を引き出してくれたのもKさん。

そして、つかさずシャッターを切ってくれたのはミスターK。

連携プレーのなせる技ですね、さすが。

 

ちなみにゆきちゃんが着ているこの服は、

ゆきちゃんお手製。

ありあわせの端切れを使用してつくりました。

 

ゆきちゃん、実は本屋に嫁いでくるまで、

和裁・洋裁のできる腕一本で生活してきました。

広島県の尾道で、洋裁学校の教師をしていたこともあります。

 

山陽堂にきてからは

店の仕事の傍ら、

祖母のきものやゆかた、

私たち3姉妹のスーツから普段着、

制服までつくってくれました。

 

今もつくりつづけているゆきちゃんです。

 

 

 

 

2011年8月16日
ふじい君はもういない。

ふじい君がもういない。

向田邦子さんの話を聞かせてもらおうと電話をしたら、

一月前に亡くなったとお姑さん。まだ67歳。

 

ふじい君といっても16歳も年上のお兄ちゃん。

今から40年以上前、私がまだ幼稚園から小学生だった頃、

昭和39年位から大学に通いながら7年間ほど山陽堂で働いてくれた

最後の住み込みの店員さん。

 

去年、山陽堂120歳のお祝いの会に親戚や店員さんが一堂に集り、

ふじい君も遠路はるばるかけつけてくれて、

向田さんの話をしてくれた。

向田さんのところに配達に行って、コーヒーをごちそうになったよと。

私は、今度話を聞きに行かせてね!と言ってそのままに・・・。

 

ふじい君は、山陽堂の絵描きのお得意様ととても仲良しだった。

結婚のお祝いに青山か赤坂だったかマンションの一室をもらうところだったという、

そんな話も聞きそびれてしまった。

 

山陽堂の誰も、その絵描きのお得意様がどんな絵を描いていたのか知らないけれど、

ふじい君はお祝いにいただいて持っているはずなので、

いつか見せてもらおうと思っていた。

 

ふじい君は、小学生のの頃親元を離れお寺で修行をしていた。

大学でもそのような勉強をしていたと思う。

山陽堂在職中、夕方からお坊さんの格好をして葬儀に行っていた。

近所の葬儀屋さんとも仲良しだった。

 

明治神宮にもよくお散歩に連れて行ってもらった。

ふじい君の片腕にサルのようにぶら下がっている写真がのこっている。

 

ふじい君が夜間の大学から帰ってくると、

台所でインスタントラーメンを作ってたべていた。

おいしそうだなあと横目でみていたっけ。

 

結婚をして、

山陽堂を辞めて、

お坊さんになって、

お子さんができて、

20年前に奥さんに先立たれ、

その後、お孫さんに恵まれて。

ご住職としてお寺を守っていた。

 

「死に上手になりたい」

と言っていたという。

なくなる前日までふつうに食事もしていたそうだ。

 

当日の朝、

別院の仏さまのまえに、

休むようにして横たわっていたふじい君は

帰らぬ人となった。

 

向田邦子さんが飛行機事故で亡くなられてから、

8月22日で30年。享年51歳。

店番をしていて、ときどきお目にかかった向田さんは

今の私と同じ位の年齢だったのか・・・。

 

この夏休み向田さんの『無名仮名人名簿』をよんで、

今さらながら、向田さんの文章にひきこまれた。

生の向田さんの話を知りたくて、

ふじい君に聞いてみようと電話をかけた。

 

ふじい君はもういなかった。

 

 

 

 

 

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